おめでたいの鯛

頭がおめでたい

元ネトウヨ19歳のぼくが政治に全く興味なくなった理由

こんにちは、 ゆ←鯛 です。

 

ぼくは、中学高校のときバリバリ右寄り思想でした。

 

というのもネット上で

右寄り思想の情報発信をしているのファンでした。

 

niconico動画では、

ユーモアを混ぜながら、韓国中国を批判する動画

と画面に流れるコメントがマッチしていて

とても中毒性がありました。

 

youtubeでは、デモ動画を見ていました。

とてもエネルギーに溢れていて、

演説がほんとにかっこいい

動画を見るだけでも鳥肌たつ。

 

情報発信者を崇拝していたおかげで、バリバリの右寄り。

多くの日本人は、真理に気づいていないんだ!

自分たちだけが本当のことを知っている。

みんなにも本当のことを知ってほしい。

ずっとそう思ってました。

 

しかし、右寄りの人って全体数でみると本当に少ない。

どんだけ彼らがメディアや路上で訴えても、全然政治に反映されない。

こんなのおかしい間違ってる!

みんな本当のことに気づいてくれよ。

そういう思いがだんだん怒りとなって、余計に差別が進行していきました。

 

ネトウヨをやめたきっかけ

 

ぼくの場合は、目が覚めてやめたわけではありません。

 

世間に理想を求めすぎたせいで、現実とのギャップに精神をやられていました。

 

世界に絶望したぼくは、

世界に理想を求めるのをやめました。

 

自分のために、

人に求めるのをやめた。

それだけです。

 

政治について考えるのは疲れる

 

政治について一生懸命考える人っていうのは、

自分を含めた日本全体、世界全体のことを考えたりと

とってもエネルギーを費やします。

 

自分のためでなく人のために動こうとする

その姿勢は尊敬に値するものです。

 

しかし

 

『政治について考える』ということは

『こうあるべきだ。という確固たる自分の意見を持つこと。』

 

つまり、世間に対する理想を抱くわけです。

 

理想というのは、もちろん現実の対義語。

 

このシステムがおかしいから、こうあるべき。

などと、現実における欠点を指摘したうえで、

それを改善した案を理想案として作り出す。

 

こうして自分の意見というものを持つたびに

現実と理想とのギャップを確認できます。

 

そのとき、何もできない自分へのふがいなさや

同じ考えに至らない人を理解できないことから

怒りや悲しみを感じたりします。

 

対して、幸福度というものは主に

喜びや幸せなどの感情を抱いたときに正のエネルギーが発生することで上昇します。

怒りや悲しみなどの感情を抱いたときに負のエネルギーが発生することで下降します。

 

政治について考えれば考えるほど

怒りや悲しみの感情を頻繁に抱くことになり

どんどん幸福度が下がるのです。

 

政治の追求とは、まさに自分を削り続けなければいけないものでした。

 

幸福度を追い求めたら政治は消えた

 

ぼくが、高校生くらいのときに、右寄り思想もあってか

世界に絶望していました。

 

なぜ人々は、真理に気づかないんだ。

と、自分の掲げる理想と現実のギャップののまれ

 

さらに、完璧主義なところもあったので

人間関係もうまくいっていませんでした。

 

そんなことから、かなり辛くって

カウンセリング受けて、いろいろ読書して

必死に幸福度あげる努力をしていました。

 

幸福度をあげるというのは、簡単ではなく

主に、幸福度を下げる行動をしない。

ということが大切になってきます。

 

やってて楽しくないこと、義務感でやっていることなどを

次々に排除していきました。

 

そうすると、怒りや悲しみしかうまない政治については

全く考えることはしなくなっていきました。

 

幸福を追い求めた故、

政治について考えられなくなったのです。

 

若者は賢く環境適応する

 

そんなわけで、ぼくの場合は

政治について考えても不幸になるだけだから。

という理由で政治に興味を失いました。

 

では、他の人はどうなのかというと。

政治について考えても楽しくない。

とほとんど同じ理由だと思います。

 

バリバリだったころのぼくに聞かせてみたら

愛国心はないのか

自分のことしか考えないのか

日本がどうなってもいいのか

その場しのぎのはいつまでも続けられないぞ

とか言っただろうと思います。

 

しかし、今のぼくなら

 

現実と戦い続けることで消耗するくらいなら

もとから理想なんか作らずに

現実を受け止めることで、どんな環境にも素早く適応していった方がいい。

そう判断します。

 

民主主義における自己主張は義務とも言えます。

しかし、ぼくらは自分のためにそれを放棄する。